母をドナーとした生体腎移植を受けたのは
日韓ワールドカップで日本中が湧いた2002年の末。
あれから約18年が経過しましたが
当時の出来事は、今でも鮮明に覚えています。
当ブログを開設したばかりの時に
腎移植手術当時の"日記"を、ほぼそのままの形で掲載させて頂きました。
病室に持ち込んだノートパソコンに向かい、徒然に思いつくままタイピング。
メンタルが乱高下している様も、今読むと本人には、分かる。
リアリティがあるといえばありますが、文章構成などはメチャメチャ。
そこで今回
未だ鮮明な当時を記憶と、その"日記"を少々参考にしながら
「生体腎移植の手術から退院まで」の"リアル"を整理して
【腎移植手術】何年経っても色褪せない記憶。生体腎移植手術当日を振り返る
手術前
手術約10日前から入院。
印象的だったのが、入院初日に渡された「腎移植の手引き」に書かれた
手術後の患者の"姿絵"。
身体のありとあらゆる場所から管が伸びてる…寝顔がやや笑ってるのがシュール😅。
術前に3回、血液透析を行うわけですが
腎保存期での腎移植、つまり透析経験のない私には
横たわって血液透析を受けている患者さんを見て、大きな不安感を抱きました。
さらにシャントが無いので、上腕動脈へ直接穿刺しての透析。
一回目は左腕、二回目は右腕と、交互に穿刺。
針を抜いた後は、強めの圧迫止血を数十分間も行いましたが、それでも
広範囲にわたって内出血が見られました。
免疫抑制剤の服用が始まると
入院中はその血中濃度を測るのに、一日6回採血したこともありました。
免疫抑制剤の中でも「ネオーラル」の臭いが、どうしても苦手で…
マスクにアロマオイル垂らして、臭いを紛らわせながら飲んでました。
免疫抑制剤に関しては、自分でも勉強しようと
学部生向け専門書を病室で読んでました。
手術前日
手術前日。
ドナー側の手術、レシピエント側の手術に関し
執刀するそれぞれの医師から説明を受けました。
夜には「高圧浣腸」なる、巨大な浣腸を刺されました。
狭いトイレに看護婦さんと二人入り、お尻を出し浣腸される…
こんな行為をされても、この期に及んでは「恥ずかしい」などという感情は沸かないものです😂。
そして「剃毛」。
バリカンを渡され、お風呂で一人"ジョリジョリ"。
懇切丁寧に剃り過ぎて、看護婦さんのチェックでは
「そんなに綺麗にそらなくてもいいのに」と"お褒めの言葉"をいただきました😋。
手術当日
早朝には、全身を消毒するため
浴槽に溜まったお湯に、専用の薬液を入れた"薬湯"に入ります。
ドナーである母が手術室へ向かったのは、8:00頃。
レシピエントである私が手術室へ向かったのは、10:50頃。
手術室の光景は、医療ドラマで見るそれと、ほとんど同じな印象でした。
手術台に乗せられたと同時に、麻酔チームが動き出す。
脊髄麻酔の注射を打つ"ための"麻酔を最初に打ちます。
側臥位の状態で背中を丸め、ちょうど腰の辺りに脊髄麻酔が注射される。
痛みは無いですが
太い針が、身体の奥深くに侵入していく感じは、分かります。
手術室に到着した主治医から
「お母さんも順調だよ、いい腎臓だ」との言葉を聞き、少し安堵する。
口元にマスクが置かれ(麻酔用のマスク??)、数秒後には意識が無くなる…
麻酔からの覚醒直前(おそらく)
2人の子供とキャッチボールをしている夢を見ました、おそらく甥っ子の2人。
それから、遠くの方から聞こえてくる
「DAISUKEさ~ん!聞こえますか~!DAISUKEさ~ん!手術終わりましたよ~!」
の声で覚醒。
その後の記憶は非常に断片的です。
自分が病室にいることは、何となく認識はしていました。
家族の顔が見えた時、そこで何かが"切れた"のか
とめどなく涙が溢れてきて
「ありがとう…ありがとう…」と必死で叫んでいたのを覚えてます。
家族の話によると
母が病室に戻ってきたのが17:30頃
意識朦朧の状態で病室へ戻ってきた母でしたが
微かに口にした言葉が
「嗚呼~こんなに苦しむなら、やらなきゃよかった…」
これは
"自分が苦しくてやらなきゃよかった"などという、安易な意味じゃなく
"自分がこんな苦しいならDAISUKEはもっと苦しい、なんでそんな手術をやらせたんだ…"
との思いだったそうです。
子に対する母親の愛情というのは、これほどまでに深いものなんですね。
一方
私が病室に戻ってきたのが19:30頃。
酸素マスクや、鼻から管が入っているのは感覚でわかりましたが
意識朦朧とした中では、自分の身体に何がどう付いているかなんて細かくはわかりません。
喉に引っかかる痰を吐き出す作業はやや困難。
喉の管を存在を感じながら、僅かながらの肺活量で口元に「ビュェ~」と出す感じ。
手術翌日~退院
術後数日間、両腕には複数の点滴。
両腕から大量の点滴を投与するされることで、腕がパンパンに浮腫んできます。
腕への負担も大きく、点滴による水圧や、点滴が中で漏れたりして、痛い痛い💧。
ベッドの上では仰向けの状態で、寝返りはおろか足すら思うように動かせません。
レントゲンが病室へ運び込まれ、移植腎を撮影するのですが
腰下に撮影用のボード一枚入れるのにも苦労しました。
でも、身体に繋がれた色々な"管"も日に日に外れてくるので
その都度、気分不快は軽減されます。
大変なのは私だけじゃない、むしろ
手術翌日は、母の状態の方が最悪でした。
ドナーの腎臓摘出は、腹腔鏡手術。
お腹に空気を送り込み膨らませて行うのですが、その影響で
吐き気・頭痛・高熱が酷かった。
痰も出るも吐き出す力がなく、ただ苦しむだけの状態だったそうです。
そんな体調の中
母は車椅子に乗って(もちろん看護師に運ばれて)、私の病室へ顔を見せに来てくれました。
長い廊下の移動中、あまりに症状が酷く一度は引き返したようですが…
部屋に居た時間たった約10秒。
お袋の姿は小さく
お互い手を伸ばし軽く触れた後
その時比較的気分が良好だった私に比べると、気の毒な気持ちに思いましたが
それ以上に
そんな酷い体調でも、顔を見せに来てくれた母の気持ちが嬉しかったですね。
約1週間後に退院した母でしたが
手術中長時間の側臥位の影響(と言われた)で、左大腿側部麻痺がその後数カ月続きました。
患部ドレーン一本を残し、全ての管が取れると自力で歩けるようになるので
随分と入院生活は楽になりますね。
唯一残った患部ドレーンが外れると、晴れて手術後初めてシャワーを浴びれます。
その年の年末、退院の運びとなりました。入院生活は約1カ月。
※年明けた1月早々に、再入院。
急性拒絶反応&サイトメガロウイルス感染症で、入院生活は1カ月にも及びました。
が、今回その詳細は割愛します。
まとめ
日本で生体腎移植の場合、その多くは「親族間」で行われます。
ということは
手術を待つ"他の親族"たちは、2人分の心配をするわけです。
"待機組"の手術当日の様子を、後で聞くことになるのですが…
父、そして姉に加え、私の従妹、叔父、叔母達が
遠くは九州から、病院へ駆けつけてくれました。
当初予定していた時間になっても病室に戻ってこない母を心配し、親族一行もうパニック状態。
そして予定時刻より約2時間遅れで手術終了の知らせが来た時
ふと外を見たら、雪が舞い降りたのそうで🌨。
あまり雪の降る地域ではないとはいえ、ただの偶然でしょうけどね。
私の手術終了の知らせについては、代表者として父が手術室前まで聞きに行きました。
他の親族たちは、母の病室の外の廊下で待たされているわけです。
そこへ、父が病棟に戻ってきた。
夜の入院病棟なので、大きな声は出せません。そこで
母の病室の外の廊下で待つ親族を遠目で見た父は
"母の部屋に入っちゃ駄目なのか?"との意味で手で「✖」サイン🙅を出したのですが
それを見た親族は
"私が(ネガティブな意味の)ダメ🙅!!"と理解したらしく
親族一同、まさに"崩れ落ちた"らしい😅。
まったく、人騒がせな父です…
私も病室へ戻り、ひと段落した段階で、皆さんは一旦解散。
私の従兄が姉を自宅まで車で送っていったのですが、その道中
12月の真夜中、雪降る寒さの中、二人とも窓を開けたまま走って帰ったそうです。
姉に言わせると
その時はもう、色々な感情がごちゃ混ぜで「放心状態」だったようですよ。
家族の者の手術特に、「親族間の生体腎移植」となれば
手術を待つ者の心配は、単純に2倍になるわけです。
お話したような手術当日の"裏話"を聞くと、月並みな言い方ですが
手術というのは患者だけでなく、その家族も共に"戦ってる"んだな、と思いますね。
今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございました。