前回に引き続き、在宅透析8年目の私が、
2002年の自身の生体腎移植手術を、当時の日記を通して、振り返ります。
理由については、
在宅透析患者が、過去の腎臓移植手術を振り返る(エピソード0)
をご参照下さい。
今回は、「手術前日」及び「手術当日」です。
Table of Contents
【腎移植患者の日記】腎臓移植手術を振り返る(手術前日・手術当日)
手術前日。
最後の透析は痛かった・・・
前回前々回の〇〇先生ではなく、受持医の△△先生が穿刺したのだが。
動脈はまずまずであったものの、静脈がなかなかうまく入らず、針をグリグリ。
その場所を諦め、手首の静脈にチャレンジ。が、それも失敗。
結局一旦止血措置を施し、替わって□□先生(検査入院時の受持医)が刺して一件落着となった。
透析前は、前日の透析の影響からか頭が痛く、少々しんどかったものの、透析1時間半ほど経過した時点で、その痛みを和らいできた。
夕方は、手術室看護婦、麻酔担当者の説明問診が行われ、最後に親戚一同を集め、母の執刀医▽▽医師、そして自分の執刀医である〇〇先生より、手術の最終説明がなされた。
夜は、最後の「チューニング」。
「高圧浣腸」なる、巨大浣腸を刺され、約40分はトイレで唸る。
しかし、狭いトイレに看護婦さんと二人入り、お尻をだし浣腸される。こんな行為をされても、この期に及んで「恥ずかしい」などという感情は沸かないものである。
そして剃毛の儀式。
バリカンを渡され、お風呂で一人ジョリジョリ。
懇切丁寧に剃ったのだが、看護婦さんのチェックでは「そんなに綺麗にそらなくてもいいのに」と“お褒めの言葉”をいただきました。
あとは、明日朝一で薬湯に入って、チューニングは終了、手術を待つのみとなる。
いよいよこの日が来たのだが、正直いまだに実感がわかない。
明日、手術台に乗り、脊髄に麻酔をかけられてやっと「嗚呼~始まるんだ・・・」と実感するんだろうな。
術後早く落ち着いて、この「入院日誌」を書きたいものだ。
2002年12月某日
移植手術当日。
8:00頃、母手術室へ。精神安定剤投与により、既に意識は朦朧としていたという。
10:50頃、いよいよ自分も手術室へ。こちらは安定剤効果全くなし。
行く道中よくしゃべった「んじゃ、いってくるわ」「嗚呼~これが手術室か~、ドラマ見て~」等。
手術台が見えてくる。乗せられたと同時に、麻酔チームが動き出す。
脊髄注射の際は「あっ、そんなに痛くないね」「あ~、きたきた、そういうことね」などと、担当医と“談笑”。
口元に麻酔のマスクが置かれる。本来は即効効くのだそうだが、数秒は意識あり。手術室に到着した〇〇先生を見て
「お袋の方はどうですか?」と聞くと「お母さんも順調だよ、いい腎臓だ」と。それを最後にやっと意識が無くなる・・・
誰だかわからないが2人の子供とキャッチボールをしている夢を見ていると、遠くの方から聞こえてくる「DAISUKEさ~ん!聞こえますか~!DAISUKEさ~ん!手術終わりましたよ~!」
その後の記憶は非常に断片的なのだが。
まず〇〇先生を見つけ「先生、ご苦労様でした、ありがとうございました」と声をかけ「順調に進んだよ」との返答。
左一列に親族一同の顔が見える「嗚呼~みんなありがとう」(これは場所が不明、そんな場面あったかも不明)
そこから自分が病室にいることを確認。すると、入れ替わりで親族の顔が再びベット左脇に見える。
そこで何かが切れたのか、とめどなく涙が溢れてきて、そして一人一人に「ありがとう・・・」と必死で叫んでいたのを覚えてる。
話によると、母が病室に戻ってきたのが17:30頃、俺が19:30頃だったそうだ。ただ、なにせ周りの親類も落ち着かない状態なので、その時間もよく覚えていないと言う。
その後は、酸素マスクや、左鼻から管が2本入っているのは喉の感覚でわかったが、俺の身体に、何がどう付いているかなんてわからない。
他は、喉に引っかかってる痰を、なんとか口元まで運び出す作業がやや困難。喉の管を存在を感じながら、僅かながらの肺活量で口元に「ビュェ~」と出す。
ここで、裏舞台の一部を紹介。
予想手術時間から、母の戻り予定が14時頃と聞いていた親族一行は、待てど暮らせど知らせの来ない状態に、もうパニック。
そして16時頃、手術終了の知らせがきた時、ふと外を雪が舞い降りたのだそうだ・・・
本人意識朦朧の状態で病室へ戻ってきた母。ただ、唯一意識下で微かに口走った言葉「嗚呼~こんなに苦しむなら、やらなきゃよかった・・・」
これは、“自分が苦しくてやらなきゃよかった”などと安易な意味じゃなく、
“自分がこんな苦しいならDAISUKEはもっと苦しい、なんでそんな手術をやらせたんだ・・・”との気持ちが、朦朧とした中で発せられたのだとか。
俺の手術終了の知らせを、本館手術室前へ代表者として聞きに行った父が、病棟に戻ってきた。
すると、廊下向こうの母の部屋外で、親族一同が待たされている。
父としては「(母の)部屋に入っちゃだめなのか?」との意味で、×サインをだしたのだが、それを見た親族一同は、「俺が駄目!!!」と理解したらしく、崩れ落ちたという。
◎◎(従兄)が姉を自宅まで車で送る道中。
12月の夜、あの寒さの中、二人とも窓を開けて走っていたそうな。
2002年12月某日
補足
手術当日の日記は、当然「当日」には書いてはいないでしょう。
術後数日間は、ベッドの上、仰向けの状態で、寝返りはおろか、足すら思うように動かせず、さらに、両腕に点滴されているので。
今となっては記憶が曖昧で、術後何日経過してから「入院日記」を再開したのか、定かではありません。当日含め術後数日分は、後日思い出しながら書いたのでしょう。
手術当日のことは、今でも色々思うところはあるのですが、ここでは「家族」のことについて、少しだけ。
親族間の生体臓器移植の場合、待つ立場の親族たちは、同時に二人の心配をするわけですね。
身内の手術終了を「待つ」立場も経験して思うこと。月並みな言い方ですが、
手術というのは、家族と共に戦うものなんだな・・・
と。