全9回にわたって、「在宅透析の流れを概観する」ことをテーマに記事を書いまいりましたが、そこでフッと、思ったことがあります。
「在宅透析の流れ」のことではありません。(ごめんなさい・・・)
このブログの存在価値について、です。つまり
このブログのオリジナリティは、どこにあるのか?
HHDの流れを書いてみて思ったこと
このブログのオリジナリティは、どこにあるのか?
「在宅透析」とググって見ると、上位表示される記事のほとんどが、
医療機関の、医療従事者側からの医学的、専門的な内容のものが多いと感じます。
そのことは、患者にとって非常に有益なことで、間違いのないことです。
専門的なことは専門家に。
医療従事者、特に医師の中には、
患者が自身で勉強したことをもとに質問したり意見することを、快く思わない方々も、いると思います。気持ちはわかります。
素人が知ったかぶりをすることで、医師が指示した治療方針から外れ、治るものも治らない可能性があることを、医師の方々は危惧されているのだと。この姿勢は医療の専門家が、とりもなおさず、患者の命を第一に考えてのことである、と理解してます。
ただ、
患者が自身の病気について学ぶこと、それ事態は悪いことではないと、私は思います。
自分の病気に対して、受け身にならず、積極的に関わっていくこと。
このことは、特に、
終わりの見えにくい治療を強いられる透析患者にとっては、
時に苦しい自分の気持ちを、切らさずに前を向くために、必要な姿勢ではないでしょうか。
<参考>腎臓移植までの平均待機期間:5387.7日
公益社団法人 日本臓器移植ネットワーク NEWS LETTER Vol.23.2019
とはいえ、
ただの患者が、医療従事者の専門領域を、さもしったかぶって話す、特にブログなどで記述することは、誤った情報を流布する可能性もあるわけで・・・
そこで、このブログは
患者側目線の内容に特化していかなければ
と、思ったわけです。
記事内容を、患者側目線の内容に特化する
このブログを、少しでも社会にとって有意義なものとしていく道は、
もっと
「患者(在宅透析患者)である私は今、何を、どのように感じているのか」
ということにフォーカスして、記事を書いていくことではないか、と。
しかしながら、ここで問題が・・・それは、
心情を言語化することの難しさ
心情を言語化することの難しさ、です。
形あるものは、「あれは四角い」「あれは丸い」を言語化できるが、
形ない「気持ち」「感覚」を言語化することは、なかなか難しい。
よく、病院で自分の痛みの症状を伝えるのに、苦労すること、あるかと思います。しくしく痛む、ちくちく痛む、何かで押されているような痛み等々。そこに近いですかね。
自分が感じ思っていることを、言語化することは、難しい。
よく人は、
「他人の気持ちになって考えろ!」
と言うが、そもそも、そんなこと出来るのだろうか?
仮に、Aさんが気持ちを言語化できたとして、それを見聞きした相手側Bさんは、その言語化されたものを理解する。でもそれはAさんの「ホントの気持ち」ではないかもしれない。Bさんは、「わかった気になる」ことは出来ても、ホントに「わかる」ことは出来ない、あくまで「類推」するしかないのです。
患者の「気持ちは」、患者自身にしかかわからない。
だからといって、患者の周囲の方々は、手をこまねいているだけというわけではないでしょう。
患者の話を聞いてあげることはできる。
患者に寄り添うことはできる
患者の言葉から、患者の気持ちを「類推」し、それを自分の中に落とし込んで、自分なりのアクションをおこすことはできる、と思います。
まとめ
現実を受け入れ、自分としっかり向き合う。
「善く生きる」ことの意味を問い続ける旅の途中で、
出会うであろう全ての人が、
善く生き、悔いのない人生を送るための、
一助となる。
~当ブログVISIONより~
当ブログの理念として、上記のようなことを、掲げさせて頂いております。
大それたことであること、重々承知してます。
でも、出来うることを、私なりの形で、私なりのペースで、行動していこうと思います。
このブログの「ペルソナ」は、過去の自分でもあります。
ただ、その結果、
- 通院透析を頑張っている患者さん
- 在宅透析導入を考えている患者さん
- 私と同じく現在、在宅透析を頑張っている患者さん
- 患者を支える家族の方々
に、「(患者自身である)私は、こう思います」と投稿する。
ちっぽけな行動ではありますが、
皆様が、 善く生き、悔いのない人生を送るための、一助となれば、
こんな喜びはありません。
今回も、最後までお付き合い下さいまして、ありがとうございました。