2013年
移植した腎臓が廃絶し、血液透析導入となった私。
「透析する」ことを『受容』した上で現在
週6日、在宅にて血液透析を行う日々を過ごしております。
そこで、ふと思う。
「透析導入を『受容』する」ことの意味を、真に理解しているだろうか?と
キッカケは"内科医タケオ"こと大武陽一先生の下記stand.fmを聞いたこと。
ここでは
「患者は病気を『受容』しなければならない(すべし!」
と"押しつけ"する医療者側の現状の姿勢に警鐘を鳴らした上で
「そもそも病気を『受容』しなければいけないのか?」
と、疑問を呈する。
私自身、先のブログ等で
「腎臓"死"を理解し、透析導入を『受容』した」
としたものの
『受容する』ことの"真の意味"を理解した上で
『受容』した
と言っていたのだろうか、と。
今回は、大武陽一先生の
「そもそも病気を『受容』しなければいけないのか?」
こちらをキーフレーズとして、今一度
自身が透析導入に至るまで、そして現在の心理状況を
《省察》してみたいと思います。
[su_box title="注意!!" style="soft" box_color="#fd1015"]
これから述べる内容は、あくまで
"私は今こう感じている" というレベルの話。
「心の揺らぎ」の程度は千差万別
私も1週間後には「心情変化」する可能性あるわけですから。
【腎臓病患者の心理】私は"透析導入を『受容』する"ことの意味を理解していただろうか?
サイコオンコロジー領域での『受容』とは違う?
サイコネフロロジー領域において
CKD患者が腎代替療法(ここでは透析導入を指すとする)に至る心理的プロセスは
(引用元:春木繁一著『サイコネフロロジーの臨床』)
腎機能が廃絶つまり腎臓「死」に至っても
"個体"としては生存する。
腎「死」に至ってもなお"個体"として生存する、つまり、生き続けるという現実が
患者の透析療法を受け入れる心的障害となる、といった側面を持つ。
一方、サイコオンコロジー領域である
エリザベス・キューブラー=ロス氏が提唱した
「死の受容のプロセス(死の受容の五段階)」
ここでの心理的プロセス上での『受容』概念は
"個体としての「死」"を前提とする、つまり
『受容』のいかんに関わらず個体死に至る。
受容を幸福な段階と誤認してはならない。受容とは感情がほとんど欠落した状態である。あたかも痛みが消え、苦闘が終わり、ある患者の言葉を借りれば「長い旅路の前の最後の休息」のときが訪れたかのように感じられる。
(引用元:エリザベス・キューブラー=ロス著『死ぬ瞬間』
こう見てくると、同じ『受容』という言葉でも
その意味合い、ニュアンスが違うことは、なんとなく分かる。
リアリティのない『死』
私たちは無意識のうちに「自分にかぎって死ぬことは絶対にありえない」という基本認識をもっている。私たちの無意識は、自分の命が本当にこの世で終わるとは思っていない。
(引用元:エリザベス・キューブラー=ロス著『死ぬ瞬間』
「あなたは透析しないと死にますよ」と言われても
日常において、あまりに『死』のリアリティが、ない。
『死』について余計な恐怖心を駆り立てるのは止めろ、といった
エピクロス的姿勢というものがある。
死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつは、われわれにとって何ものでもない。われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。
(引用元:『エピクロス』岩波文庫)
ただ、この言葉を聞いたからといって
得体の知れない『死』に対する恐怖感がなくなることは、おそらくないでしょう。
なぜなら
「生きている」時と「死んでいる」時との間は"スパンッ!"と切断されて
その間に"移行の時間"が存在しない、という理屈には少々無理があることは
感覚的に理解できるはず「死ぬ前は痛く苦しむだろうな」とか。
とはいえ
「あなたは透析しないと死にますよ」
と言われても、依然としてリアリティはない。
現在進行形の『生』は、"無意識"に謳歌しているわけで
その『生』が"終わる"なんてこと、理屈では認識していても、急に
『生』を意識し
『死』を意識しろ(覚悟しろ)と言われても
考えられることは所詮フィクションだし。
そもそも、『死』を経験し戻ってきて
「死って、こんな感じだよ」なんて説明できる人はいないんですからね。
(※「俺は三途の川を渡りかけた」みたいな話はあるそうですが…)
『受容』ではなく『受動』
移植腎廃絶から在宅血液透析導入の過程で味わった"喪失"感
当時、なんの根拠もなく
"未来永劫生き続ける"と思っていた移植腎の機能低下が止まらない
「透析止む無し」の気運が日に日に高まっていく
そして"その時"(=移植腎廃絶=透析導入決定)は来るわけです…
"その時"
私は"何を"受容したんでしょうね?
確かに
いついつから透析導入しなければいけないという「スケジュール」は"受容"しました。
在宅で血液透析をするということは自己穿刺をする、という「仕組み」は"受容"しました。
それら一つ一つの決定に『心』(心情)は介在していたかな?と当時を思い返すと
ただひたすら"受動的"に日々生活していただけ、のような気がします。
自分から生きる術を選べなかった、とも言えます。
まとめ
「あなたは透析しないと死にますよ」
「死ぬ」と言われても、リアリティあるイメージが湧かない以上
そこに何かの感情を乗せることには、無理がある。
言い換えると
"無理やり"負の感情を乗せることはできるし、できたと思う。
透析患者の「余命」に関するデータの類は、嫌でも見聞きするわけで
それに乗じて、自分の感情をネガティブ方向に傾けることは、いくらでもできる。
ただ、繰り返しになりますが
『死』をイメージできない、『死』にリアリティがない
『死』がなぜ怖いものと捉えられているのか、それは
『死ぬということ』が何やら得体のしれないモノだから。
(※この辺り、信仰心ある方などは違った見方があるんでしょうけど)
怖いけどリアリティがない、なら
無理して"負の感情"を湧き立たせることもない。(今のところは…)
冒頭の大武陽一先生の問い
「そもそも病気を『受容』しなければいけないのか?」
抱える病気や治療に関する自己理解を深める必要はあるが
"卵が先か鶏が先か"
『受容』するための"心の有様"を、わざわざ作り出す(創り出す)必要もないのでは。
移植腎廃絶から在宅血液透析導入8年目
"ライフスタイルが変化した”
こんな程度の認識で、今はいます。
今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございました。