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腎臓移植 透析全般

【腎臓病患者の心理】私が腎代替療法(腎移植/透析)に至るプロセスで経験した"喪失感"を深堀りする

2020年9月20日

worried

下記2つの投稿記事で

慢性腎臓病患者のたどる心理的プロセス」について言及しました。

上記で既に述べた通り

私の場合、二つの腎代替療法を、つまり

  • 生体腎移植
  • 血液透析

時間軸をずらして経験しておりますので

慢性腎臓病患者が腎代替療法を「受容」するまでの過程を

"二通り"経験しているわけです。

今回は、腎代替療法を「受容」する前の過程で表出する

"喪失"

のフェーズを、もう少し深堀りしていこうと思います。


【腎臓病患者の心理】私が腎代替療法(腎移植/透析)に至るプロセスで経験した"喪失感"を深堀りする

あえてCKD患者の心理的プロセスを"深掘り"する理由

過去記事内容の一部を、今一度ご紹介させてください。

参考文献「サイコネフロロジーにおける心身医学の役割」では

CKD(chronic kidney disease 慢性腎臓病)患者が

腎保存期から腎代替療法に至るまでの心理的変化において、重要な概念

"喪失"

であると、述べています。

私が既に記事化した内容を、今回なぜ深掘りするのか、それは

私が歩んだ軌跡が、普通と"若干"異なるから。

冒頭に、私は

慢性腎臓病患者が腎代替療法を「受容」するまでの過程を二通り"経験している

と申し上げました。

仮にオーソドックスなケースを辿るとすると…

自家腎の機能を「喪失」し透析へ移行⇒

長い透析生活を経たのち、腎移植手術施行⇒

移植腎が廃絶「喪失」、再び透析生活へ…

という道程だと思うのですが

その歩みが、私の場合"若干"違うんですね。

その違いを意識して、慢性腎臓病患者の経験する

「喪失」感を、深掘りして参ります。

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保存期腎移植で味わった「喪失」感

結論から申し上げますと

腎保存期での腎移植(※今は先行的腎移植(preemptive transplant)というらしい)では

「喪失」のフェーズはありませんでした。

"少なくとも私は"と、但し書きを入れようと思いましたが

よくよく考えれば

先行的腎移植をする"その時(その直前)"には患者(レシピエント)に

何かを「喪失」したという感情は、恐らく無いと推察されます。

なぜなら

腎機能を"完全に"失っていないから。

私"特有の"「喪失」感

しかし私の場合、腎移植に至る過程で、確かに

「喪失」のフェーズは、ありました。それは

"運動する機会を奪われる"、という「喪失」感です。

「なんだ、そんなことか」と思われるかもしれませんが

幼き時から、身体を目一杯動かし

アスリートの端くれ(陸上競技100M)として勝負の世界にいた身としては

自家腎の機能保全のためとはいえ

"運動を制限"されるということは

一般の方が考えている以上の"喪失"感が、当時私をおそいました。

ここでまた一つ、過去記事内容の一部を、今一度ご紹介させてください。

春木繁一著「サイコネフロロジーの臨床」に述べられている

透析導入が必要となったCKD患者のたどる心理的プロセス」です。

Psychonephrology,

血中クレアチニン値から、本来ならば既に「要運動制限」であったにも関わらず

ヘモグロビン値が正常範囲であった時は、身体は動けちゃうわけですね。

しかし、その状況が徐々に変化していくと

頭では自家腎機能の保護のため「運動制限すべし」と分かってはいるのですが

その事実を認めない自分がいる、上記の心理プロセスでいうところの

否認」のフェーズです。そこから「いらだち」のフェーズへ。

思うような絵を描けないことの「いらだち」から

当時は誤った判断を、次々してしまっていました。

私の身体の状態を冷静に的確に把握していた母とは、よくぶつかりましたね。

そこから"運動することを失う"という事実を「受容」するわけですが

これは

心理的に「受容」したわけではなく

自家腎機能低下による重度の貧血により

嫌でも「受容」せざるを得ない、というものでした。

このように

私が先行的腎移植に至る過程で「喪失」のフェーズがあったのは

あくまでパーソナルな事情であって

その点で、「喪失」フェーズの有無は

患者一人一人のライフスタイルによるものであると、私は考えます。

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移植腎廃絶から在宅血液透析導入で味わった「喪失」感

初めて味わった正真正銘の"喪失"感

移植腎廃絶から在宅血液透析導入の過程で味わった"喪失"感

これは、正真正銘の"喪失"です。

ただ、ここでまた、私の"若干の"違いは

"喪失"のフェーズを味わった時期です。

「移植腎廃絶から在宅血液透析導入の過程で味わった"喪失"感」といえば

普通に考えれば

"移植腎が廃絶した時"

だと思います。そりゃそうです

文字通り、移植した腎臓を"失った"わけですから。

しかし、私が一番"喪失"感を味わったのは

"慢性拒絶反応が確認された時"でした。

急性期の拒絶反応に対してはパルス療法等の治療効果が期待できるが

慢性期における拒絶反応というのは

移植腎に対する抗体が、自身の体内に構築されてしまった状態…

素人のレベルですが、当時の私はそういう理解をしていましたし

医師からもそれに近い説明をずっと聞かされていました。

慢性拒絶反応が認められる、それはつまり

以後、移植腎の機能が低下の一途を辿ることを意味する

少なくとも私はそう理解していました。

今では、移植腎の「生着率」についての認識も深まっているので

移植した腎臓が未来永劫機能し続ける可能性が、ほぼないという事実は理解できますが

当時の私は、「保存期腎移植で味わった"喪失"感」の時と同様

頭では理解していても、その事実を認められない自分がいました。

上記の心理プロセスでいうところの「否認」です。

「いらだつ」ことは無かったと思いますが

精神的には非常に不安定な状態が長く続きました。

【透析患者の心理】透析患者のたどる心理的プロセスの"雛型"に、自身の経験を照らし合わせてみる

で言及した"尿毒症性精神障害の様相"かどうかはわかりませんが

通勤途中にパニックに近い症状が表出し、当日欠勤することもしばしばありました。

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私が辿った"喪失"という現実の「受容」過程

移植腎機能が低下、そして透析導入の"決定打"となったのが

2013年2月の急性心膜炎であることは、下記投稿記事でもお話しました。

移植腎を失うという現実を「否認」し続けた私も

この急性心膜炎を患ったことによる顕著な移植腎機能の低下を目の当たりにし

背けてきた現実を、徐々に「受容」していくこととなりました。

そんな私に、最後まで寄り添ってくれたのが、やはり私の腎移植主治医でした。

他の医師の口から「透析止む無し」との発言が目立つようになるなか

主治医だけは、私の心情を察してか

最後のギリギリまで手を尽くし、また

沈みそうな私の気持ちを落ち着かせてくれました。

しかし、いよいよ"その時"は来るわけです…

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透析「受容」過程で、私が"喪失"を感じなかった理由

透析療法のことをハッキリ"延命治療"と評する人は大多数おります。

必然的に患者には、透析に対する強烈なネガティブイメージが刷り込まれます。

結果

上記「透析導入が必要となったCKD患者のたどる心理的プロセス」にあるように

患者は時に「抑うつ」となり、「透析拒否の心理」にまで陥ってしまう場合があるのでしょう。

ここで私が幸運に恵まれたのは、当時の腎移植チームの一人に

自身で開業するクリニックで「在宅血液透析」を行う非常勤医師

(今のHHDの主治医)がいらっしゃったこと。つまり

透析導入の話を進める中で

最初から選択肢に「在宅血液透析」がテーブルにあったわけです。

もちろん

在宅血液透析のメリット・デメリットに関するレクチャーをしっかり受けましたが

迷いはなく、決断するに時間はかかりませんでした。

このことが何を意味するかというと

私にとって「血液透析」は

世間の大多数が思うようなネガティブな医療行為ではなかったわけですね。

もちろん「不安」はありましたが、その「不安は」

在宅血液透析のミクロな部分(例えば自己穿刺)であって

"血液透析"に対する「不安」、ひいては

自分の余命に対する「不安」ではなかったわけです。

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まとめ

thanks

冒頭で、CKD患者の心理的プロセスを"深掘り"する理由を

「私が歩んだ軌跡が、普通と"若干"異なるから」

などと、偉そうに申し上げましたが…

私の言わんとするところは

学術的な評価指針というのは、最大公約数的な要素が含まれているわけで(※個人的見解)

患者の心理的プロセスというのは、100人患者がいれば

「100通りの心理プロセスがあるのでは」

ということです。

しかし、だからといって

私がブログやTwitter、Podcastsで

自身の経験と、その経験から感じることを発信することに

全く意味がない、とは思いません。

不安や絶望の渦中で、ただひたすらにもがいている患者さんにとって

自分に近い境遇の人間が

「私はこんなこと経験して、その時こう思ったんだよ」との言葉や声を

ふと、目にし耳にできたら、それが

  • 患者さんが今いる立ち位置を把握する材料の一つになるかもしれない
  • 自分がこれから進むべき道が薄っすら見えてくるかもしれない
  • 絶望の淵から、僅かな光明を見いだせるかもしれない
理念

現実を受け入れ、 自分としっかり向き合う。

「善く生きる」ことの意味を 問い続ける旅の途中で、

出会うであろう全ての人が、

善く生き、 悔いのない人生を送るための、 一助となる。

自分の理念を信じて…

今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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