最近、Twitter上で
「緩和ケア」に関するツイートを目にする機会が増えました。
私のTwitter上での発信の柱は「在宅血液透析」&「腎移植」なのですが
"医療関連"というくくりでいうと
「緩和ケア」の医療従事者の方々との繋がりを持つことは
ある意味、必然だったのかもしれません。
約4年前に、父を亡くしました。癌でした。
がん告知から最期までは約4カ月
あっという間といえばあっという間ですが
長かったと感じることも、あります。
それだけ、良くも悪くも濃密な時間だったと言えると思います。
「緩和ケア」に従事されてる医療関係者のツイートを目にしたことで
父に対し息子としてやれたこと、やれなかったことが、ふと反芻されました。
あの時のこと、記憶を風化させてはいけない
あの時を含めて、私と父との思い出なのですから。
その意味で、今回
当ブログの柱である「在宅血液透析」&「腎移植」とは少々離れますが
末期がんを患い亡くなった父の闘病生活を
Table of Contents
【がん患者と家族】ガン告知から最期までの4カ月 父に対し息子としてやれたこと、やれなかったこと
まえがき
酒もタバコもする父でしたが、根っからの"病院嫌い"
これまで体調不良毎に「病院に行け」と言い続けたものの、行かず
行ったとしても、自宅近くのクリニックに行き、降圧薬を貰ってくるだけ。
そんな父は、過去に喉頭がんを発症し、手術を受けています。
発声の変化に気づいた母が、とりあえず近くの耳鼻咽喉科でもいいから行け、と尻を叩き
そこで診察した結果、同クリニックの"範疇を超えている"とのことで
某大学附属病院へ転院、結果は喉頭がん。
オペにより癌は切除。
ことによっては、声帯を失うリスク、恐怖を味わったにもかかわらず
まさに"喉元過ぎれば熱さを忘れる"
数年後には"自己判断"で大学附属病院への通院はしなくなり
(あまり父の名誉のために言いたくはないのですが…)
事もあろうに、喫煙を再開する始末…
そんな父も、これまでとは違った肉体の異変を感じたのでしょう。
「さすがに病院行け!」との求めに渋々応じる形で、地元の総合病院へ受診。
しかし、事態は既に"地元の中堅総合病院"では手の負えない状況になっており
某大学附属病院(喉頭がんオペをした附属病院と同系列)へ転院
様々な精密検査を受けることとなったわけです。
がん告知
今から約4年前の3月上旬
医師から、末期の食道癌と告知されました。
精密検査の結果が分かるとうことで、嫌な予感のした私は
渋る父を振り切り、外来診療に同席することに。
最初は当初予定されていた「呼吸器」科へ。
そこで見せられた父の肺の画像は
素人の私でも一見して「普通じゃない」ことが分かる程。
医師は癌であることを告知。しかし、そこで聞かされたのは
「食道」にも癌がある、ということ、そして
肺ガンもさることながら、食道の癌の方がより深刻ではないか、ということ。
「消化器の医師からご説明頂けないでしょうか?」と、呼吸器の医師に頼み
その足で「消化器」科へ通してもらう手はずを整えてもらいました。
(ここから一部余談も挟みます)
対峙した消化器医師、ハッキリ申し上げて第一印象は良いとは、とても言い難いものでした。
終始不機嫌、その不機嫌な理由は
予定外の診察を"ねじ込んだ"呼吸器科医師に向けられている様子。
既に肺がんの告知を受けているがん患者及びその家族の前で
同僚の医師の愚痴を漏らす様は、医師として如何なものでしょう?
そんな状態の消化器医師からの説明は、とても"患者ファースト"なものではありませんでした。
「ステージ?4!4!オペは出来ない、すぐに強めの抗がん剤治療始めるから」と。
一応、とってつけたようにセカンドオピニオンのくだりを説明されましたが
言いたいことは「どこに行っても同じ」ということ。
診察室を後にし、駐車場へ向かう道中
父の方は「食道がん」ということが、あまりに想定外だった様子。
酒、タバコを長年続けていることから
「肺がん」や「心筋梗塞」「脳梗塞」という"ワード"はメモリーされていたものの
「食道がん」はメモリーになかったようで。
私の方は、喉頭がんを発症し、その後通院を自己判断で止め、喫煙も懲りずに続けていたことから
「食道がん」と聞いて、意外な点はなし。
そんなことよりも、私の頭にあったのは
「あの医師、この病院に、父は任せられない」という危機感でした。
と同時に、転院させる病院も、気持ちの中では決まっていました。
実は、その約1年半ほど前、母が先にがん宣告されておりまして。
腹膜までがん転移している末期状態。
ただ、幸いなことに医師に恵まれ、そして施された治療が一定の効果を示し
一進一退の状況は(今も)続いているものの
医師及び同医師の常勤する病院とは良好な関係にありました。
「あの先生にお願いしよう」
同医師が「消化器外科医」であることは承知していましたので。
末期がんを宣告された当の本人である父ですが
この状況で仕事に戻ろうとしたのか(不明ですが)
「駅まで送ってくれ」と言うので、父を駅まで送り届け
私はその足で、母が抗がん剤治療を続ける病院及び母の主治医の元へ
アポなしで伺いました。
主治医は当然、母のことで来院したと思われていたでしょうから
「実は父のことで…」との話に少々驚いた表情をなさっていましたが
有難いことに父の治療を快諾して下さいました。
問題は「例の医師」に転院の旨を伝え、手続き及び各種検査データを受け取ること。
数日後、姉同席で「例の医師」の元へ。
母は同病院で現在末期がんで、抗がん剤治療中であること
息子である私は移植腎廃絶後、自宅で血液透析を行う透析患者であり
複数の離れた医療機関を今後行き来することは難しい旨を伝えた。
すると前回とはうって変わって「それは大変ですね、何かあったらなんでもご相談下さい」と。
両親末期がん、自身透析患者である我々家族を哀れに思ってくれたんじゃないか、と
笑いながら姉と話したもんです。
こうして、末期の食道がんを告知された父は
同じく末期がんで戦う母が治療を続ける医療機関(某県立病院)で
抗がん剤治療を始めることになります。
抗がん剤治療
結論から申し上げると
抗がん剤治療といっても、実際やれたのは2~3クール程度ではなかったでしょうか。
父の癌はこの時点で既に、それほどまでに進行していたということです。
投与した抗がん剤治療の性質上、薬物の腎排泄を促すため利尿薬が使われていたのですが
父は、それが気に入らなかったようで…つまりは
尿意をもよおしトイレへ行くのに、抗がん剤投与量をコントロールする機械のコードを
都度都度外す必要があり、それが面倒臭い、と…
抗がん剤による入院期間というのは僅かなもの(たった2~3クールですから)でしたが
その間、病院へ行く度、また父から私に電話がかかってくる度
父の口から出てくるのは、病院への愚痴と「仕事」の話だけ。
姉も思い悩んでました。
心配で毎日、父の元へ見舞いに行くのですが、その度に
「何しに来たんだ」と言わんばかりの不機嫌対応。
父自身は、自分を重病人扱いされたくなかったのでしょうか、全く真意は分かりません。
そんな酷い対応されても、姉は
「何度突き返されても、私は行くよ」と。
父がそう長くはないと、姉も理解していたんでしょうね。
同時期、母も抗がん剤治療は継続されており、投与される薬が変わるなどしたことで
それによる苦しい副作用にも見舞われていました。
私は私で毎日毎日、血液透析を行う日々。
自分がしっかりしなくては、と思う一方で、メンタルはかなり消耗していました。
結果、父の数々の言動に対し、いささか我慢ならず
突き放したような物言いをしたこともありました。
当時の自分としては、致し方なかったと思いつつ
亡くなってしまった今は、そのことが後悔の念としてあります。
がん進行と共に衰弱していく父
やせ細っていく身体
言わずもがな
食道というのは、口から飲食したものが通る道。
そこに悪性腫瘍ができ、それが増幅されることで
"通り道"は徐々に塞がれていきます。
固形の食事はほぼ摂れません。
お粥を飲み込める時期はありましたが、それも難しくなりました。
医師からは成分栄養剤「エレンタール」を処方されていました。
各種フレーバーは添付されているものの、味はお世辞にも美味しいとは言えません。
少しでも飲みやすい栄養剤を、と思い
市販のバナナ味のプロテインと粉末青汁を、牛乳でシェイクしたものを飲ませました。
父も「これなら飲めるぞ」と、ストローを使ってですが少しずつ飲んでくれました。
しかしながら状況は好転せず、水ですら飲水した刹那吐き出す状態。
結果として、肉体は日に日にやせ細っていきます。
狭心症
抗がん剤治療の入院中(何クール目の時かは忘れましたが)激しい胸痛に襲われ
診断の結果は「狭心症」。
長期に渡る喫煙と飲酒で、冠動脈は柔軟性を失い、内腔も狭くなっていたことに加え
ガン性出血と肺機能低下により、心臓への酸素供給が滞った結果である、
薬の投与で姑息的に症状を抑えることは出来るが、状態は非常に厳しい、と
循環器医師からの説明を受けました。
その後、一応退院。
基礎体力の著しい低下と重度の貧血で、その足取りは非常に重い。
それでも、仕事に向かう父。
玄関出て自宅敷地内の階段を、ゆっくりゆっくりと登る父の背中を
家族としては複雑な心境で見つめていました。
私の妻と父の職場が近かったこともあり、朝、妻と父、一緒の時間に出勤、通勤していました。
私の妻には大変世話かけました。
自宅から最寄り駅までの道中、最寄り駅についてからホームで電車を待つ間
会社最寄り駅までの車内、会社最寄り駅ホーム到着から改札口出るまで…
フラフラな父を私の妻が献身的に介抱してくれていたようです。
なぜ、そこまでして職場に向かうのか、仕事を続けるのか
私の理解の範疇は超えていましたが
父は父なりに「仕事をする」ことで、なにか正気を保っていたのでしょうか
今となっては知る由もありません。
ステント留置
亡くなる1カ月前くらいだったでしょうか。
主治医から、食道に"ステント"を留置してはどうか、との話を頂きました。
姑息的な処置であり、且つ出血のリスクも伴うが、うまくステント留置できれば
少しは食事を摂れるのではないか、と。
"出血リスク"懸念はあったものの、父にとってステント留置は行ってよかったと思います。
おそらく半月程度ではありましたが、固形の食事を摂ることが出来てました。
父と私の妻がファミレスに行った時があったらしく
その時”天津丼”を「美味い!美味い!」と言って食べていたそうです。
しかし、姑息的は処置はやはり"姑息的"で、ほどなくしてまた
水すら吐き出す状態に戻ってしまいました。
そして…
最期
亡くなる前々日の夜22時頃のこと。
その日母は抗がん剤治療のため入院中。
いつものように私は2階で血液透析中。
すると1階から父の声が。
妻が駆け付けると、居間で倒れていたという。
躊躇はありませんでした。
血液透析をしながらですが、私は救急車を要請。
すぐに透析機器からの離脱困難な私に代わり
救急車へは妻が同乗し、私は後から搬送先の病院へ向かうことに。
透析の強制終了、すぐ返血し止血、病院へ向かおうと思ったのですが
1階へ降りてみると、父が倒れた際の"タール便"が散乱していましたので
ちょうど駆け付けた姉とともに、その清掃&消毒をし、病院へ。
病院に到着した時、父はちょうど緊急の処置室からCT室へ向かうところ。
意識朦朧としている中、父が気にしていることと言ったら「携帯」と「メモ帳」。
それらの入ったバックを持ってきたのかどうかを、私の妻を呼び寄せ聞いてました。
どういう意識下だったのか…
そのまま救急外来病棟で入院することが決定(のちに一般病棟に移るのですが)。
時間は深夜2時を過ぎていたでしょうか
いくら同じ病院内にいるとはいえ、おそらく就寝中である母へ、父のことを伝える術はないので
姉と妻と私は、一旦自宅へ戻り、短時間の仮眠の後、再び病院へ。
救急外来病棟のベッド脇には、本来ならその日退院予定だった母がいました。
どうやら朝になって入院していた病室へ、父が緊急搬送された旨を伝えられていたようです。
父の様子を見た私は「いよいよ厳しい」との認識でしたので
同じ県内にいる私と同じ年の従兄に連絡し、都合がつき次第病院へ来るように伝えた。
一般病棟へ移された父、最初はナースステーション横の"半個室"的な部屋。
しかし、そこで吐血、看護師からは個室への移動を提案される。
「個室に移るとうことは、そういう(いよいよな状況)意味ですよね」と
無理を承知で聞くと、看護師の方は軽くうなずいてくれました。
個室に移ったのはその日の夕方。
後に母から聞いた話ですが、父と母との二人の会話で
「俺もお前もガンになって、なんだかな…まあ俺はあと3年位かな…」と。
父の病状に関して母は、私同様の判断基準を持っていたので
「嗚呼~この人は自分の置かれている状況を分かっていないんだな」との印象は(おそらく)持ったでしょうけど
父の話に耳を傾けていたようです。
今となっては分かりませんが、あの状態で父は
本当に余命が「3年」と思っていたのか、それとも
余命が「3年」と思いたかったのか。
息子である私の見解は"前者"だと思っています。
しかし、それの方が父にとってはよかったのかな、とも。つまり
事態の深刻さを認識し、死に対して恐れおののくことなく"最期"を迎えられたので…
(この考え方が正しいかどうかは分かりませんが)
個室に移ってから程なくして、痛みを訴えだす父。
母が担当医師から「薬を使いますけど、よろしいですか?」と確認があったようです。
そこでの薬はモルヒネを意味するということは、母にはすぐ分かりました。
「今夜は私が看てるから、あなたは一旦戻って透析してきなさい」との言葉に甘える形で
私と妻は、一旦帰宅し、2時間の短時間血液透析を行い、再び夜22時頃病室へ。
その頃には、モルヒネにより父は眠っていましたが
傍らにあった容器には、吸入された血が溜まっていました。
モルヒネ投与前に母が担当医師に
「今晩、病室に私いた方がいいですか?」と聞いたところ即答で「その方がよろしいかと」と。
つまり、いつ最期の時が来てもおかしくない、という意味ですね。
そんなやりとりが交わされていたので、その晩は母が病室にいることに。
母も私も、根拠はないですが「その晩」はなんとかもつだろう、ということで
私と妻は、再度一時帰宅。
しかし明朝早く母から入電「いよいよかもしれない、来た方がいい」と。
すぐに病院へ向かいましたが、臨終には間に合いませんでした。
まとめ
現在、私の一日は朝
仏壇の前に座り、お線香を手向け、おりんを鳴らし合掌
目を閉じ、心の中で
"今日も一日、家族皆が、笑顔で、健康で、幸せでありますように。
そして
母が、一日でも長く、笑顔で、楽しい人生がおくれますように"
と、唱えることから始まります。
眼前では、亡くなる約2年前の正月
自宅玄関前で撮った笑顔の父が私を迎えてくれます。
父に対し息子として、何をしてあげられただろうか
なんでもっと、色々なことをしてあげられなかったのだろうか…
亡くなってから、事あるごとに想いをはせる私に、母や姉は
「○○(私の名前)はよくやってくれたよ」とは言ってくれますが…
"家族を亡くし、残されたものが後悔しないよう、生前に悔いなき孝行をしましょう"
とは言うものの、実体験として
生前に悔いなき孝行をしたとて、死者に対しての後悔の念が無くなることはないかと。
亡くなった者のことを、あれやこれやと話することが供養になる、と聞きます。
母や姉、妻とは、日常の何気ない会話に父は"登場"します。
父が亡くなって既に4年経つのですが
そんな日常を過ごしていると、未だに私の心の中では
父が亡くなった、という実感がないですね。
もちろん、通夜・告別式を行い、火葬場で骨のみとなった父の"姿"は見ています。
生命体としての父が、今自分のいる空間にいないという事実は、もちろん認識していますが
父が"いない"という実感は、全く湧かないんですね。
死後の世界がどうだとか、亡くなった者の魂がどうのこうの、といった
宗教的なことは無頓着だし、あまり関心はありませんが
毎朝、父の"笑顔"を見て、毎日父の話をしていると
私の心の中では、父はまだ"いる"んですね、だから悲しい気持ちにならないのです。
もちろん、時にしんみりする時もありますよ。
行政書士試験に合格した時、父が生きていたら何って言ってくれただろうな?
"在宅血液透析に関する患者目線の情報発信"という今の活動を見て、何って言ってくれただろうな?と。
まあ、あの親父(オヤジ)のことなので
「お~!そうか!イイじゃね~か、それ!」と
よくわかってないくせに、わかったかのように"褒めて"くれるんでしょうね、たぶん。
ここまで書いてきて、なんか少々込み上げてくるもの、ありますね…ここいらで止めておきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。