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腎臓移植

【腎移植と患者】"移植腎廃絶"した当時の心を、よりリアルに言語化してみる

2022年9月26日

腎移植を"1サイクル"経験した私

『移植腎廃絶となった生体腎移植レシピエントの心理』については

過去のブログでも、YouTube(VTube)でも、話している。

今見返しても、「細かく描写できてる」と、我ながら感心する(^_^)v

上記動画は、講義を気取った、"ちょっと背伸び"をしたもの。

(これはこれで見応えはあると思いますが)

"理想のタイミング"を考える時、私はどうしても

献腎移植による移植腎が「廃絶」することも想定して考える。

なぜなら、一度腎移植手術(生体腎移植手術)をし

腎移植を"1サイクル"経験しているから。

(引用元:過去ブログ『【腎移植の時期】献腎移植、理想のタイミング(※自分でどうこうできる話でないこと、承知の上で)』

直近のブログ、動画で「献腎移植をするタイミング」の話をし

その際、"移植腎廃絶"にも触れましたので

今一度、当時を振り返ってみようか、と。ただ

>我ながら感心(^_^)v

とした上記動画でご紹介した内容より、ある意味"リアル"に

「講演会調」ではなく※そんな機会、無いでしょうが💦

当時生活していた時、リアルに"どう"感じていたか、を思い返してみると…

組織診断で「慢性拒絶反応である」と医師から告げられた時。

慢性拒絶反応が認められる、それはつまり

以後、移植腎の機能が低下の一途を辿ることを意味する

少なくとも私はそう理解していました。なぜなら

急性期の拒絶反応に対してはパルス療法等の治療効果が期待できるが

慢性期における拒絶反応というのは、移植腎に対する抗体が、自身の体内に構築されてしまった状態…

素人のレベルですが、当時の私はそういう理解をしていましたし

医師からもそれに近い説明をずっと聞かされていましたから。

「慢性拒絶反応」という、辛く悲しく厳しい宣告をされた腎移植患者

人生に絶望し、人目もはばからず泣き叫ぶ…そんな姿を想像されるかもしれませんが。

(実際、「腎臓を提供してくれた夫・妻・親に申し訳ない」と、泣き叫ぶ患者もいるでしょう。この辺りは、昨今目にする、日ごろから「涙が止まらない」人たちが求める"ストーリー"を描きやすい題材かな。私、かなりひねくれてます💦)

では、実際、私はどうだったかを思い返してみると…

確かに、ある種の"喪失感"「移植腎を失う…」との心理的状況には陥っていたと思いますが

「そうはいっても、大丈夫でしょう」

といった、全く根拠のない、楽観的な思いで、日々生活していたかな、と。

「〇年生着率、〇%」

といったデータ、もちろん当時目にしていたとは思いますが

移植腎が機能している、「慢性拒絶反応」と診断されても、移植腎が一定程度機能している体調下で

わざわざ、気持ちがネガティブになりそうなデータを引っ張り出して

「嗚呼~、あと何年(移植腎)機能してくれるかな~」

などと、深刻に考えて生活は、していなかったじゃいないかな、と。

ましてや

移植腎が廃絶した「後」のこと、つまり

「透析」のことなど、全く意識していなかった、イメージしていなかった(できていなかった)…

これ、ホントのところだったと思います。

「(透析を)イメージはしてる」

頭では思っても、口では言えても

経験して"いない"ことを、リアルにイメージすることは容易ではない。

(引用元:過去ブログ『【腎移植の時期】献腎移植、理想のタイミング(※自分でどうこうできる話でないこと、承知の上で)』

自身が受けた生体腎移植が、「先行的生体腎移植」で"なかった"ら、つまり

1度目の移植手術「前」に透析、腹膜でも血液でも経験していれば

移植腎が廃絶した後に待っている「透析」を

意識することができる、意識せざるを得ない心理状態にはなれたと思いますが…

「慢性拒絶反応」と診断されても

「そうはいっても、大丈夫でしょう」と、ある意味お気楽でいられたのは

そもそも、移植腎廃絶後を全くイメージできなかったという事情もありますが

当時の腎移植主治医への全幅の信頼があったことが、大きかったかな、と。

「なんとかしてくれる!」

といった、非現実的、無茶な期待をする、というより、もっとシンプル

「この先生に、任せるしかない」

他に選択肢、考える余地はない、あれこれ考える必要が、患者(私)にはなかった

と言った方が、正しいかと。

「いよいよ透析か…」

否が応でも意識し始めたのは、透析導入=在宅血液透析導入した同じ年(2013年)の2月

「急性心膜炎」を発症し、移植腎機能が一気に低下した時。

しかし、それでも

この期に及んでも

勿論、ここまで機能低下した移植腎が"超回復"するなどと、非現実的なことは考えませんが

「透析」を"意識"はするものの、具体的な"イメージ"

実際に、私が「透析患者となる」イメージは、描けませんでした。

単純な世間知らずだった、とも言えますが

「血がグルグル回ってる、あれね」程度。

「腕に針刺す、っていうけど、毎回実際に刺すわけじゃないでしょ?なんかあるんでしょ?刺すわけないじゃん、だってそれじゃ痛いじゃん!」

マジに、こんな阿保っぽいしか頭に浮かんでなかったかも。

自分の腕に太い針を"本当に"刺す

この事実、本気で悟ったのは

「導入透析」のために入院、VA(バスキュラーアクセス)造設手術をした時

そして、初めて「血液浄化センター(透析室)」へ、足を踏み入れ

実際に、シャント肢血管に穿刺された瞬間、かも。

これ、マジよ、マジ。

だから、ここで言いたいのは(※あくまで私の場合は、ですが)

  • 「移植腎が廃絶する」
  • 「透析導入となる」

この事実を、リアルに認知したのは、文字通り、リアルに"そう"なった時。

事象がリアルになっていない時の、その事象のイメージは

所詮薄っぺらいもので、(自分に対しても他者に対しても)説得力の欠ける代物だ。

だからこそ、なんにせよ「経験者」の話には価値があるのであって

だからこそ、「経験者」はその経験を"着色"すべきでは、ない!

経験談を"美談"に昇華する行為は、折角の希少性を削ぐだけ。

実際、とある腎移植関連の美談記事を読んだ方々からは

  • 「(論点が)ブレてる」
  • 「聞きたいところとズレてる」

等、ネガティブコメントも見られる。

経験談、特にここでは「腎移植」経験談

湯川先生曰く"非論理的なものの象徴である"「愛」などというもので着色する(美談にする)行為

折角の希少性ある「経験談」が、必要としている人々に届かず

日頃から「涙が止まらない」感動屋さんを、ただまた泣かせるだけ…

というのが、私の持論です。

最後、喧嘩売っちゃったかな?

だから、私は今後も

「在宅血液透析」しかり、「腎移植」しかり

自身の経験を"非論理的"要素で着色することはしない。

「面白みがない」と言われようと、構わない。

「面白みがない」から、当然"バズる"ことはないが、それでも構わない。

本当に必要としている人に、正しい姿で届く

そんな情報を発信する努力をして参ります。

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