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腎臓移植 透析全般

【腎移植と患者心理】移植腎廃絶となった生体腎移植レシピエントの心理(過去/現在)

2021年12月8日

waiting,pray

「在宅血液透析並びに腎移植に関して、

それを経験した患者目線の"ライブ感"ある情報を発信する…」

というプロジェクト『腎生を善く生きる』の管理運営という

"仕事"を始めて大きく変化したこと、それは

SNSを積極利用するようになったこと(利用せざるを得なかった?)

結果として…

今まで(=SNSを利用する前までは)目にすることが殆どなかった

他の患者様(他者)の様子を見聞きするようになった、ということです。

その過程で感じたこと、特に「腎移植」領域で感じたのは

移植腎"廃絶"患者の声は、あまり見ない、ということ。

言い換えれば、SNS上で見聞きするのは

移植腎が生着し、比較的"順調"な患者様の声だ、ということ。

ただそれは、ある意味仕方のないことかな、と。

移植腎が生着し「今」を生きている患者様の声が

「今」を表現する情報プラットフォームSNSで"目立つ"一方で

移植腎廃絶した患者にとって"移植腎廃絶"は過去の一地点の出来事で

(もちろん、移植腎廃絶に至るまでは"経緯"というスパンですが…)

移植腎廃絶した患者の「今」は、次のフェーズ、例えば

通院血液透析に移行しているので

「今」を表現する情報プラットフォームSNSで

"元"腎移植患者様の「今」の声は、例えば透析の話になる。

残念ながら私は

2002年末に、母をドナーとした先行的生体腎移植を受けるも

その移植腎が2013年で機能不全(廃絶)した、という意味で

SNS界隈では"マイノリティ"の部類に入る(?)

したがって

「移植腎廃絶となった生体腎移植レシピエントの心理」

それを経験した私が表現することは、一つのオリジナリティかな、と。

加えて、僭越ながら申し上げるなら

サイコネフロロジー領域の観点から、非常に貴重な"データ"にもなるのでは?と。

そこで今回は

『移植腎廃絶となった生体腎移植レシピエントの心理』

と題して

実際に移植腎を廃絶した時に味わった「喪失感」=【過去】

加えて

HHD患者となった自分が、"今"の腎移植患者様に思うこと=【現在】

これらを

実体験と、実際にあった事例を引き合いに出しながら

綴ってみたいと思います。

お詫び

なぜ【現在】と【過去】の心理を、あえて分けて描写するのか。

今まで、つまりSNSを利用する前までは

「人は人、自分は自分」

他者と、特に病気/病状について自分と比較し

あれこれ思考を巡らすことに何の意味もない、との考えから

「他者と比較する」思考をあえて(無理にでも?)停止させ

他の患者様の情報を

積極的にインプットすることは、ありませんでした。

しかしながら

SNSの世界に入ってしまうと(ブロック/ミュート等の手段はあるにせよ)

他者の情報を一切、シャットアウトすることは、ほぼ不可能。

私は"聖人君子"では、当然ありませんので

「人は人、自分は自分」と思っていても

不都合な情報を見聞きすると、良い気分はしません。

私の場合、特に「腎移植」に関しては。

(実際に、大きく『心』がネガティブに揺れたことがありまして…)

生体腎移植手術をするも、その後

移植腎廃絶した私の【過去】の「喪失感」を発信することは

ある意味では

HHD患者となった自分が、"今"の腎移植患者様に思うこと、つまり

【現在】時に『心』がネガティブに揺れてしまうことの

"エクスキューズ"

とも言えるかもしれません。

今回の私の発言に対して、特に

現在、移植腎が生着している患者様におかれましては

気分を害する方々も、多くいらっしゃると思います。

しかし

「移植腎が廃絶してしまう」というのは

やはり、それを経験した患者にとっては酷でありまして

巷に溢れる「腎移植」に関する言葉一つ一つに

センシティブにならざるを得ない、ということを

多少なりのご理解を賜りたい、との思いがあるわけでして

その点、何卒ご容赦願いたいと存します。

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【腎移植と患者心理】移植腎廃絶となった生体腎移植レシピエントの心理

私の話をする前に…私同様

移植腎廃絶した患者様の症例がないか、と色々ググっていたら

2014年7月12日㈯~7月13日㈰開催「第25回 日本サイコネフロロジー研究会」

その演題に、腎移植から透析再導入となった患者さんの症例がありました。

引用文献として、その"抄録集"をここで添付したいところですが

"保護されていない"URLでしたので…

したがって、同内容の骨子部分は外さないよう

簡潔にご紹介させて頂こうと思います。

症例(第25回 日本サイコネフロロジー研究会より)

症例:1_生体腎移植後の血液透析再導入受け入れ拒否したレシピエント

30代男性

幼少期(10代)に血液透析導入・生体腎移植するも、30代で透析再導入。

施設外来での維持血液透析を開始するも、透析を自己判断で度々スキップしていた模様。

緊急入院となった際は、実に8週間透析を中断していた、とのこと。

「透析をしてまで生きる意味がわからない」等、否定的な発言あり。

入院のさなか外出、そのまま帰院することなく自主退院。

その後も外来受診せず、医療スタッフとの連絡も取れなくなったという。

数週間後、呼吸苦で受診し、緊急透析を施行。

「今まで感じたことのない苦しさ」を感じたことで

徐々に"透析再導入"という現実を受け入れる姿勢が見られるようになる。

現在(※"今"現在どうかは不明…)精神科と透析スタッフが連携・フォローしながら

週3回の維持血液透析を安定的に実施できている、とのこと。

《考察》として述べられていたことを、そのまま引用すると

再導入後も自尿があり(中略)危機的な状況もみられなかったため、本人は透析の必要性をそれほど感じていなかったと思われる。

しかし、移植腎機能低下が進行するにつれ、今までにない苦しさを体験し、

死への恐怖を感じたことが透析の必要性を自覚するきっかけになったと思われる。

(引用元:第25回 日本サイコネフロロジー研究会 抄録集)

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症例:2_超急性拒絶反応後、移植腎廃絶となった生体腎移植レシピエント

30代女性

母親をドナーとした生体間腎移植手術後、超急性拒絶の可能性が高い状態に。

精神科により適応障害と診断され

本人の希望もあり、臨床心理士による心理療法が適用された。

心理療法開始当初、主治医からの情報を聞く度に

"「最悪の予想」と「わずかな希望」の両方が浮かび、悲しみと期待感の間を行き来している"

とのこと。

移植1 か月後に施行された腎生検の結果、移植腎廃絶が決定

なげやりな気持ちや不機嫌さが増大

しかし

「懸命に治療してくれている病棟スタッフには言えなかったが、心理士さんに話ができて楽になれて良かった」

と話されていた、とのこと。

上記同様、《考察》として述べられていたことを、そのまま引用すると

直接移植治療に関わっていない第三者的立場の臨床心理士に対しては感情が表出することができたことで、心理的苦痛の緩和に役立ったと思われる。

(引用元:第25回 日本サイコネフロロジー研究会 抄録集)

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腎保存期から腎代替療法(透析)に至る経緯で、患者が味わう"喪失"

参考文献

✅一般社団法人 日本心身医学会/学会誌『心身医学』(60巻,2号)

サイコネフロロジーにおける心身医学の役割」大武陽一医師著

CKD(chronic kidney disease 慢性腎臓病)患者が

腎保存期から腎代替療法に至るまでの心理的変化において、重要な概念を

"喪失"

であると、述べています。

この"喪失"は

単なる腎機能の廃絶といった「喪失」

のみならず

  • 腎機能廃絶に伴う社会的立場の「喪失」
  • 自己イメージ、自律性の「喪失」

をも意味するとあります。

補足

「腎代替療法」を定義する場合、血液透析は当然ですが

"腎移植"も、それに含まれます。

ただ

腎保存期の慢性腎臓病患者が、腎代替療法と一応定義される"腎移植"へ移行

それが透析を経ない"先行的生体腎移植"ともなれば

上記の「喪失」という心理的フェーズは、おそらく無いでしょう。

なぜなら腎保存期で未だ残腎機能を有しているわけで

腎機能を完全に失った=喪失したわけではないから。

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私が、移植腎廃絶から在宅血液透析導入で味わった"喪失"【過去】

初めて味わった正真正銘の"喪失"

上記でもご紹介しましたが

腎保存期から腎移植(先行的生体腎移植)に至る過程においては

私なりの"喪失"フェーズは、ありました。それは

"運動する機会を奪われる"、というもの。

「なんだ、そんなことか」と思われるかもしれませんが

幼き時から、身体を目一杯動かし

アスリートの端くれ(陸上競技100M)として勝負の世界にいた身としては

自家腎の機能保全のためとはいえ

"運動を制限"されるということは

一般の方が考えている以上の"喪失"感が、当時私をおそいました。

一方、

移植腎廃絶から在宅血液透析導入の過程で味わった"喪失"

これは、正真正銘の"喪失"です。

腎移植は「患者が受けたい時に受けられる」類のものではなく

移植腎が廃絶した流れで、スムーズな腎移植が施行されることは、現実的ではない。

(※直系尊属からの腎提供を受けた患者が、廃絶直後、今度は非血縁者等から腎提供を受ける可能性は、ある)

結果として、患者が生きるために残された腎代替療法は

透析(腹膜 or 血液)

ということになる。

「移植腎廃絶から透析導入の過程で味わった"喪失"」といえば

普通に考えれば

"移植腎が廃絶した時"

だと思います。そりゃそうです

文字通り、移植した腎臓を"失った"わけですから。

しかし、私が一番"喪失"感を味わったのは

"慢性拒絶反応が確認された時"でした。

急性期の拒絶反応に対してはパルス療法等の治療効果が期待できるが

慢性期における拒絶反応というのは

移植腎に対する抗体が、自身の体内に構築されてしまった状態…

素人のレベルですが、当時の私はそういう理解をしていましたし

医師からもそれに近い説明をずっと聞かされていました。

慢性拒絶反応が認められる、それはつまり

以後、移植腎の機能が低下の一途を辿ることを意味する

少なくとも私はそう理解していました。

今では、移植腎の「生着率」についての認識も深まっているので

移植した腎臓が未来永劫機能し続ける可能性が、ほぼないという事実は理解できますが

当時の私は

頭では理解していても、その事実を認められない自分がいました。

上記『透析患者のたどる心理プロセス』でいうところの「否認」です。

「いらだつ」ことは無かったと思いますが

精神的には非常に不安定な状態が長く続きました。

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私が辿った"喪失"という現実の「受容」過程

移植腎機能が低下、そして透析導入の"決定打"となったのが

2013年2月の急性心膜炎であることは、下記投稿記事でもお話しました。

移植腎を失うという現実を「否認」し続けた私も

この急性心膜炎を患ったことによる顕著な移植腎機能の低下を目の当たりにし

背けてきた現実を、徐々に「受容」していくこととなりました。

そんな私に、最後まで寄り添ってくれたのが、やはり私の腎移植主治医でした。

他の医師の口から「透析止む無し」との発言が目立つようになるなか

主治医だけは、私の心情を察してか

最後のギリギリまで手を尽くし、また

沈みそうな私の気持ちを落ち着かせてくれました。

しかし、いよいよ"その時"は来るわけです…

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私がスムーズに透析「受容」できた理由

透析療法のことをハッキリ"延命治療"と評する人は大多数おります。

必然的に患者には、透析に対する強烈なネガティブイメージが刷り込まれます。

結果

上記『透析患者のたどる心理プロセス』にあるように

患者は時に「抑うつ」となり、「透析拒否の心理」にまで陥ってしまう場合があるのでしょう。

ここで私が幸運に恵まれたのは、当時の腎移植チームの一人に

自身で開業するクリニックで「在宅血液透析」を行う非常勤医師

(今のHHDの主治医)がいらっしゃったこと。つまり

透析導入の話を進める中で

最初から選択肢に「在宅血液透析」がテーブルにあったわけです。

もちろん

在宅血液透析のメリット・デメリットに関するレクチャーをしっかり受けましたが

迷いはなく、決断するに時間はかかりませんでした。

このことが何を意味するかというと

私にとって「血液透析」は

世間の大多数が思うようなネガティブな医療行為ではなかったわけですね。

もちろん「不安」はありましたが、その「不安は」

在宅血液透析のミクロな部分(例えば自己穿刺)であって

"血液透析"に対する「不安」、ひいては

自分の余命に対する「不安」ではなかったわけです。

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上記症例患者様と私を"あえて"比較してみると…

先にご紹介させて頂いた患者様のように(「第25回 日本サイコネフロロジー研究会」)

既に自己腎機能を失うという"喪失"フェーズを経た後

(殆どの場合は、通院血液透析か?)

今度は「移植腎」の機能までも失うという、

二度目の"喪失"フェーズに見舞われる患者さんの

心中を"推測"すると…

  • 透析をしてまで生きる意味がわからない
  • なげやりな気持ちや不機嫌さが増大

上述の症例にありように

透析療法が「生きるために残された手段である」と、仮に頭では理解できたとしても

その現実を"受容"することは、容易ではないでしょう。

私の場合は

透析は透析でも「在宅血液透析」という選択肢が

移植腎廃絶時、既にテーブルの上にあったことは、幸いでした。

HHD導入から9年弱(2021年12月現在)

私なりに困難に思うこと・感じることは、もちろんありますが

体調そのものが比較的落ち着いていることもあり、

ネガティブな気持ちになることは、今のところありません。

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一方で感じる、将来への不安

が、しかし、です。

公益財団法人 日本臓器移植ネットワークによると

腎臓移植者の待機日数は、5,367.7日(約14年9カ月)

補足

※これから述べる内容は、あまり意味のある算出ではありますが…

仮に待機年数15年として、私はまだあと7年ある。

透析回数週3回の標準血液透析患者の場合

7年間で施行する血液透析は1,008回(1カ月12回×1年12カ月×7年)

一方、透析回数週6回の在宅血液透析を行う私の場合

7年間で施行する血液透析は2,016回(1カ月24回×1年12カ月×7年)

2013年8月から始まった在宅血液透析

2021年12月時点で透析回数は約2,200回

献腎移植手術が受けられるまで、あと2,016回の血液透析…

気の遠くなる話なわけです。

加えて

透析年数が長くなればなるほど

種々の合併症を患う危険性もあり

(※それら危険性を回避する、出来るだけ発生の可能性を小さくすると"私は信じて"、連日血液透析を施行している)

将来に対する不安が払拭されることは、ないわけです。

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まとめ(HHD患者となった自分が、"今"の腎移植患者様に思うこと)

注意!!

ここからの内容は

一部の腎移植患者様の気分を害する可能性がございます。

予め、ご了承下さいませ。

なぜ、私が"こういうこと"をいう理由は

冒頭部を再度、ご参照願います。

SNSを積極利用するようになったことで

"元"腎移植レシピエントで、現在HHD患者である私の

『心』が、時に大きく、ネガティブに揺れることがあります。

それは、私にとって不都合な情報、特に

「腎移植」に関して

私にとっては不都合な情報を見聞きすると、良い気分はしません。

そして実際に、大きく『心』がネガティブに揺れたことがありまして…

とある生体腎移植レシピエントの方が、SNS上で

"移植腎を長持ちさせる習慣"と題して

論を進めておりました。

これを見聞きして、私の『心』は大きく、ネガティブに揺れました。

理由としては…まず、そもそも

移植腎を"長持ちする/長持ちしない"という表現が、気に入らないということ。

「広く多くの方々が理解しやすいように」

とのご配慮からなのかもしれませんが…

"長持ちする"の対角として、移植腎が"駄目になる"と表する方も多くおられますが

これも、私は好きではない。

「言い方なんで、どーでもよくね?」

と言われそうですが

移植腎廃絶した立場としては「どーでもよくない」のですよ…

私自身は、移植腎の機能が不全に陥ったことは「廃絶」と表します。

多くの方々に「難解!」と思われようが「廃絶」と表します。

そして、一番私の『心』を乱したのは、その

"移植腎を長持ちさせる習慣"とやらに

  • 薬(免疫抑制剤)を一定の期間で忘れずに服用する
  • 水分摂取

という

腎移植レシピエントとしては、至極当然のことを挙げられたこと。

"腎移植レシピエントとしては、至極当然のこと"

できない(守れない)患者は、おそらくいらっしゃるでしょう。

これを、俗に"自業自得"というのでしょう。

しかし、だからといって

"腎移植レシピエントとしては、至極当然のこと"

"移植腎を長持ちさせる習慣"と表して"啓蒙"する姿勢に

私の『心』は、大きくネガティブに揺れた。なぜなら、そんな

"腎移植レシピエントとしては、至極当然のこと"、私はしてきたし

(そんなこと"当たり前"だから!)

それ以上の節制/自己管理を徹底してきた、という自負もある。

それでも、母から貰った移植腎は

約11年で廃絶してしまった…

  • 薬(免疫抑制剤)を一定の期間で忘れずに服用する
  • 水分摂取

このこと自体は、間違ってはいない。しかし

表現方法として、適切ですか?と申し上げたい。

  • 薬(免疫抑制剤)を一定の期間で忘れずに服用する
  • 水分摂取

これらを"啓蒙"するのであれば

「厳守事項」「禁忌事項」つまり

厳守!!
  • 必ず、薬(免疫抑制剤)を一定の期間で忘れずに服用すること
  • 必ず、(脱水を起こさぬよう)十分な水分は接種すること
禁忌!!
  • 薬(免疫抑制剤)の飲み忘れは、絶対ダメ!
  • 脱水状態は、絶対ダメ!

と表現すべきであって、腎移植レシピエントとしては至極当然のこと

"移植腎を長持ちさせる習慣"として"啓蒙"する、その姿勢からは

発信者が、その言霊が移植腎廃絶患者が見聞きする状況を

想定しているとは、到底思えない。

ただ、そうは申し上げましたが

無理もないかな、とも思う。

翻って、私自身が、此度の発信者同様

腎移植手術から、たかだか5年程度経過した時点で

  • 移植腎廃絶してしまった患者様の思いを類推できたか
  • 腎移植手術を受けられず通院血液透析を施行する患者様の思いを類推できたか

答えは「否」。

したがって、最終的に申し上げたいのは

  • 腎移植手術を受けられ"なかった"方々
  • 移植腎が長く生着でき"なかった"方々

の『心』を類推し想定した発言をするように!

ということではなくて…

現在、移植腎が生着し比較的順調な方々が発する言葉に対し

移植腎が長く生着でき"なかった"方々の

『心』が乱れた事実を見聞きした時には

彼等がそう思うに至る背景は、是非ご理解頂き

何卒ご容赦願いたい、ということ。

移植した腎臓が廃絶してしまう、という事実は

移植腎が生着し比較的順調な方々が

現時点で想定しうる以上に"酷"なことである

ということは

これを期に、頭の片隅にでも是非入れておいて頂きたい。

お断り

だからといって、移植腎廃絶した現在の私が

腎移植手術を受け、現在体調良好な患者さんの様子を見聞きして

「移植した腎臓は未来永劫機能するわけじゃないこと、忘れずに!」

などと、知ったようなことを言う気もなければ、考えもしません。

その点は、誤解無きよう。

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「せっかく母から貰った腎臓が、今は機能していない」という現実が

ひと時でも頭から離れることは、ありません。

とはいっても、現在の私は既に

在宅血液透析という、次のフェーズに移行し

そこに身を置いているわけです。

であれば、SNS等で発信する内容は

現在、つまり「在宅血液透析患者としての私」

となりそうですが…

私としては、自身の"オリジナリティ"は

先行的生体腎移植(腎保存期での生体腎移植)をし

その10数年後、移植腎が廃絶

施設血液透析を経ずに在宅血液透析を導入した

という事実。

これらをセットとして考えた時、決して多くは無い症例ではあるな、と。

であるならば

この間、自身で経験してきたこと、感じてきたこと

そして、現在経験していること、感じていることを

医学的専門的領域からではなく、イチ患者という裾野から

"参考資料"として情報発信していくことに

一定の意味はあるかな、と思うわけです。

その発信活動の流れの中で、今回のように

【過去】の自分と【現在】の自分とがあるからこそ生まれる

"愚痴"が、どうしても出る時は、あるのです…スミマセン。

現在、あらゆる分野で情報は溢れていて

その中には「正」もあれば「偽」もある。

問われるのは

情報過多の状況下で、受け手が何をどうピックアップし、受け手なりにどう消化(昇華)するか。

ただ

  • 在宅血液透析"単体"
  • 移植腎廃絶後、通院血液透析を経ない在宅血液透析

あまりに現状"ニッチ"な領域については、情報はあるに越したことはないですよね。

その意味で、これからも

メンタルはできるだけニュートラルな状態で

正確な情報(経験談含む)発信に努めてまいります。

今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

補足資料





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